留学したテキサス州立大学でスペイン語の授業中、中古で買ったスペイン語の教科書のページが1枚また1枚と取れてしまいました。隣に座っていた友人のグロリアに「あれ、取れちゃった」と言おうと思ったのですが、適切な英語が頭に浮かびません。“These pages were taken away” だと自然にはがれたのではなく誰かに取られたような感じだし、detachだと言葉が硬すぎるし・・・。それで彼女に“Hey, Gloria, look!”(グロリア、見て)と言ってはがれたページを見せたところ、彼女は一言 “Oh, it came off !” そうか、come offというのか・・・帰宅してさっそく辞書を引いてみると、「come off:くっついていたものがはがれる」と書いてありました。その時ですでに英語を10数年間勉強していましたが、そんな熟語があることをまったく知りませんでした。翌日だったか、同じpolitical science 学科で学ぶ、親友のスティーヴにそのことを話すと、「そんな単語、俺の5歳の息子のネイサンでも知っているぞ。お前はそんな単語も知らないで、俺と机を並べてマキアベリを勉強しているのか」と驚いたような、呆れたよう顔。確かに日本の5歳の子どもでも「取れちゃった」と言えます。
これは、5歳の子どもでも知っている日常語すら英語で言えないという、とても低いレベルの例ですが、これが洗練された、日本語独特のニュアンスを持った日本語の英訳だったら、それこそ(私には)お手上げです。「日本語ぽこりぽこり」で著者は、とある駅の壁に山の写真が貼ってあり、その真ん中に白抜きの文字で松尾芭蕉の有名な一句「閑かさや 岩にしみいる蝉の声」の英訳が書かれているのを読んで、その採点と解説をしていますが、その解説がすばらしい。ポスターの英訳はこう書かれていました。
how silent! the cicada’s voice soaks into the rocks Basho
この英訳、私には「うん、まあ、わかる訳だよなあ」と思いましたが、著者の採点は「100%ダメというわけではない」。では、どこがひっかかるのか。まずcicada’sは「複数形のsをつける必要がある」、なぜなら「この句の場合は恐らく、というか多分、いや、九分九厘、孤独な一匹ではないだろう。従って所有形のs’のアポストロフィをちょっと右に移動させてcicadas’にして、『しみ入る』をsoakと三人称複数に直しておけば、一応『セミたちの声々』にはなる」。なるほど、言われてみればその通り。しかし「でも、この訳のいちばんの問題は、出だしのhow silent!だ」とずばり急所に切り込んでいきます。まずsilentが使われる様々な例を挙げて(レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や映画『羊たちの沈黙』など)silentは「無音・無声の状態」であり、さらに静かな聖夜を「Silent Night」というように「静か」あるいは「閑か」という意味の選択肢もあるが、「『声』が主題になっている作品をhow silentから始めてしまうと、不条理に陥りかねない」「芭蕉が打ち出している『閑かさ』というのは、音が一切ない状態ではなく、人間の喧騒から離れた閑静さだ。セミがいっぱい鳴いていても、それを包み込んで『閑かさ』であり続けるほど奥が深い」。では、どういう訳なら合格点か。「山に登り、寺のあたりまできて、そこでの特筆に値する『閑さ』に出会ったわけだから、Up here, a stillness」として、
Up here, a stillness――
the sound of the cicadas
seeps into the crags.
soaksではなくseepsにした理由は「seepsの方がsoaksよりも深くまで、一種のすごみを持っていてじわっとくる染み入り方」なのだそうです。う~む、生半可に英語を学んだ私には、この英訳にただただ頷くばかり。文字通り、深いですね~~。
上にほんの少し引用した著者の解説文を読んだだけでも、著者の日本語は恐ろしいほど高いレベルにあると想像できますが、その著者でさえ、日本語を英語に訳す際、苦心することがあると言います。特にオノマトペ。例えば「しこしこ」という言葉。「噛み出があって、さわやかな弾力が楽しい、僕の好きな歯ざわり」なのだそうです。ところが、著者の手元にある英和辞典では”rubbery”と訳してあるそうで、「ゴムのrubberから派生した形容詞で、食べ物に際して使われる際、ほぼ100%まずい印象を与える」。一例として中華料理店で「このクラゲ、しこしこしている」と客が喜んで笑顔でいうセリフが”This jellyfish is rubbery“と言ったら「こんなクラゲ、食えるか」という苦情になる。Chewyでは粘っこい。delightfully firm“はかなり意味が近いそうですが、「しこしこ」の持つ音の面白さが消えて硬い表現になってしまう――。意味を正確に、しかも語感も大事にしながら訳すとなると至難の業ですね。
私にとって、この本の(というか著者の)もう一つの魅力は、深く歴史を学んだ上に築かれた批判精神(反骨精神)です。著者は『東京新聞』を手にすると、いつでも「大波小波」という匿名時評のコラムを探すそうです。「匿名だからこそいえることがあるはず――聖域なき批判、遠慮なき本音、ぴりっと辛い風刺」。しかしここ数年、読み始めると「毒にも薬にもならない、生ぬるい意見の域を出ない原稿が大半を占める」と厳しい採点。「世の中に歯切れの悪いコラムが溢れかえっている」のになぜ著者は『大波小波』に特に厳しいのでしょうか? それは「個人的な理由がある。僕の好きな詩人、小熊秀雄がかつてこの欄を執筆していたのだ」「昭和12年から14年にかけて、当時の『都新聞』に25回ほど。それらの文章が『小熊秀雄全集』(創樹社)の第5巻に収められ、今でも精彩を放っている」。童話も書いた小熊秀雄は日本が戦争へと突き進む中、言論弾圧に立ち向かいました。「対象が子どもであろうと『都新聞』の読者であろうと、詩人・小熊秀雄の基本姿勢は変わらない。同じ洞察眼とすわった肝っ玉とが、傑作童話を生み、『大波小波』の最高峰を築いた」。またもや唸ってしまいました。今現在のアメリカの詩人が戦時中の日本の反骨のコラムニストの全集を読んでいるなんて、しかも日本語で!(童話作家でもある著者が、日本語を学ぶクラスで小熊秀雄の童話を読んだことがきっかけであるとこのエッセイに書かれています)。そういえば、著者は反骨の画家ベン・シャーンの絵本「第五福竜丸」に文を付けた絵本も出していて、第12回「日本絵本賞」を受賞しています(『ここが家だ。ベン・シャーンの第五福竜丸』集英社)。
文庫本解説は一青窈さん。読みごたえのある解説です。その一節はこんな感じです。「丁寧に先人の道を書物と実際に足を運ばせて辿り、『どうして?』の事の顛末を突き止める。後世に残すべき本質を鷲掴みにし、長い歳月をかけて書かれた絵本は直実に私たちの血となり肉となる」――。
この本の題名に使われた「ぽこりぽこり」という言葉は、夏目漱石の俳句に「ひそんでいた表現」だそうです。
吹き井戸やぽこりぽこりと真桑瓜
この「オノマトペの6文字がぼくの体内で浮いては沈み、たゆたいつづけた」「月日が経っても忘れられず、エッセイに書いてみた。やがてエッセイ集を編むことになり、自然と『日本語ぽこりぽこり』が題名になった」のだそうです。
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