このブログのいくつかの記事で、NGO職員としてタイやラオスで経験したことをほんの少し書きました。このNGOは東南アジアの経済的に貧しい子どもを支援する団体ですが、実はその前にボランティアとして4~5年、職員として1年ぐらいの短い期間、パレスティナを支援する別のNGOに関わっていました(このNGOの究極の目的はパレスティナ人とイスラエル人の共生だと理解しています)。そして2000年7月末から少なくとも2~3年は働くつもりでパレスティナのベツレヘムに滞在しました(その間、ガザにも行きました)。しかし、すぐに「第2インティファーダ」という紛争が始まってしまい、約5か月滞在しただけで日本に戻ってきました(その後、東南アジアの子どもを支援する上記NGOの職員になりました)。
そんなわけで、中東の紛争には多少の関心を持ち続けてきました。「となりのイスラーム」や「ヨーロッパとイスラーム:共生は可能か」など、内藤正典さんの本を手にしたのもそんな事情からです。内藤さんは現在、同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科の教授をしていますが、大学の教養課程は理系で、中東で水資源や砂漠化の問題をフィールドワークしたそうです(その中でイスラム教徒に出会ったそうです)。それゆえ(かどうか)、話が理論的かつ経験に基づき具体的です。しかもこの本は、オンラインイベントで内藤さんがしゃべったことを再構成したので文体が話し言葉になっていて、理解がますます容易。日本を含む欧米のマスコミが喧伝するイスラーム教徒のイメージとは違う、彼らの考え方や視点のいくつかを紹介します。
まず欧米型民主主義とアフガンの民主主義の違いについて。2004年に欧米諸国がアフガンを侵攻した後、アフガニスタン・イスラム共和国という新しい国ができ、カルザイ氏が初代大統領になりました。そして米国を中心とする欧米諸国は選挙制度を整え、民主主義体制を築こうとしました。しかし、総人口約4千万人のうち約1千万人しか選挙登録をせず、2014年の大統領選挙ではわずか200万人しか投票しませんでした(当選したガニ大統領の得票数はわずか100万票)。つまり、10年経っても民主主義は根付かなかったと言えます。それはなぜでしょうか?アフガニスタンにはパシュトゥン人、タジク人、トルクメン人、ハザラ人など多様な民族がいて、以前は彼らの代表が延々と議論しながら物事を決めるのが普通でした。こうして少数民族の意見が多少なりとも反映されていました。しかし、欧米が「民主的」とみなす選挙制度では、選ばれた多数派、すなわち人口が一番多い民族がいつも選挙に勝ってしまい、彼らが与党として議会の多数決で物事を決めてしまいます。民族や部族の代表が「熟議」するのは時間がかかり非効率的ですが、それなりに民意を反映させるやり方だったのです。また、欧米型の民主主義には国民という意識を持つことが必要ですが、多様な民族や部族がいるアフガ二スタンでは「国民」という意識は十分に育っていません。国民国家のモデルをアフガニスタンに押し付けることに無理があったのです。
次にタリバンについて。タリバンというアラビア語は、大学でイスラムを学ぶ学生を意味する「タリーブ」からきています。なぜイスラムを勉強した学生が政治的な力を持つようになったのでしょうか?1979~89年の10年間、ソ連がアフガンに侵攻してアフガンの共産主義政権をサポートしました。それに対してさまざまな部族や軍閥、イスラーム組織などが戦い、ソ連を追い出しました。しかしその後、タリバンが政権を握る96年までそれぞれのグループが独自の論理と利益で動き、殺戮、誘拐、略奪、性暴力などが繰り返され、ひどい内戦になってしまいました。タリバンは部族の論理、民族主義の論理を否定し『そんなものを超えて、イスラムのルールだけで統治する』と宣言し、行く先々の村でその旨を説明しました。内戦をどうにかしてくれるなら(=平和が回復するなら)、タリバンの方がよいと村々の長はタリバン支持を約束したのです。共産主義政権時代、「神はいない」と教育された10年を、タリバン政権は「神はいる」としてイスラーム法に基づいた政治体制に作り替えようとしました。しかし道半ばの2001年、米軍の侵攻であっという間に崩壊したわけです。この間、タリバンは政治的に未熟であったため、イスラーム法でガチガチに規制した統治をおこなった点がよくなかったと内藤さんは指摘しています。とはいえ、タリバンのイスラムは、独自の解釈でも突拍子もない解釈でもなく、イスラムの教義通りに政治を行うと言っているだけだとも指摘しています。
身近な問題にも目を向けてみましょう。女性が被るスカーフについてです。1989年にフランスでスカーフを被っていた公立中学校の女子生徒が通学を拒否されて以来、フランスで大きな問題となりました。「個人の自由」を守るため政教分離を掲げるフランスでは、公の場で宗教のシンボルを身に着けてはいけないことになっています。そしてイスラム教徒が被るスカーフはイスラーム教のシンボルだから公立の中学校ではダメというわけです。これに対して、内藤さんは「たしかにコーランに元の教えはある」が、今となっては「肌を隠すために習慣的に身に着けていたもの」になっていて、それを脱げと言われるのは、「ものすごく羞恥心を傷つけられることではないか」と指摘します。今の日本でいえば、ズボンや長いスカートを好んで着用している女性に向かって『ミニスカートをはいてこい』と言っているようなもの(これってセクハラ!?)。イスラーム教徒にとっては「どうして肌を露出しなければいけないのか」と感じており、フランスの主張が理解できないそうです。
スカーフとの関連で女性の教育や社会進出について。内藤さんによれば、女性の教育や社会進出はイスラーム教では否定されていないそうです。しかし、家父長的な考え方が非常に強いので(イスラーム教が同国に入って来る以前からの社会的風習か?)、女性は父親または夫の命令に従えということになり、それに反すると罰せられることになります。この男の家父長的な態度・考え方を変えることが「一番厄介」だと言っています。しかし、例えば、イスラーム社会では自分の女性親族の肌を男性医師に診せることは絶対にノーなので、女性医師を育てていかなければならないことはタリバンもわかっていると述べています。治安が安定すれば、少しずつ女性の社会進出が認められるかもしれません。
タリバンとアルカイダの関係について。9・11同時多発テロが起きたとき、アルカイダはアフガニスタンにいました。ウサマ・ビン・ラディンは政治が腐敗しているイスラム政権をイスラム教で世直しすることを目標にアルカイダという武装闘争組織を作りました。そしてソ連のアフガン侵攻の際にはソ連に対する抵抗運動に協力しました。その縁で両者の親交が維持され、9・11後、米国から身柄を引き渡すように要求されても(恩義を感じて)匿ったのです。さて、米国のアフガン侵攻の目的はビン・ラディンとアルカイダに対する報復だったはずで、アフガニスタンの体制を国ごと崩壊させることではなかったはずですが、侵攻をはじめると理屈をすりかえて「タリバンというのはひどい政治をしていて女性の人権を著して侵害している。だからこの際、タリバンの政権ごと潰すことによって国をつくりかえてやる」「女性を解放するんだ」「人権を守る国にするんだ」と言い出しました。これは「未曾有のテロに対する報復としては筋違いだった。なぜなら」と内藤さんは指摘します。「百歩譲ってタリバンへの攻撃を認めるにして、一般のアフガン人を犠牲してよいという根拠はまったくなかったから」。欧米諸国の軍事侵攻で命を落とした一般のアフガン人は2020年までで数万人にのぼるそうです。米軍が撤退するや、すぐにアルカイダが政権を握った背景には(かなり簡略して書きましたが)以上のような事情があったと説明しています。
「おわりに」の章で、内藤さんは「欧米から流れてくる怒涛のようなイスラム嫌悪は、次第に日本にも浸透しています」「日本人が知る外国の知識は、大半が欧米諸国を経由して入ってきました」と書いてイスラム諸国と日本の関係の将来に相当な危惧を抱いているのが伝わってきます。「イスラム教徒との共生、今なら、まだ間に合うかな、と思います」「『水と油』でも共に生きていく以外に道はありません。そうならば、水のよいところ、油のよいところを知るのが一番です。水がなくても、油がなくても、人は生きてはいけないのですから」。本の最後にこのように書く内藤さんの強い想い(と危惧)に押されて、ブログでこの本を紹介することにしました。
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