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執筆者の写真直樹 冨田

「ブッダが説いた幸せな生き方」(今枝由郎著 岩波新書)

 NGOに勤務していた時、タイとラオスにしばしば出張しました。2回目の出張の時(2001年?)だったと記憶していますが、日中、バンコクのバス停でバスを待っていると、向こうから僧侶が来ました。すると隣に座っていた女性(20代後半ぐらい)がサッと立ちあがって席を譲り、急ぎ足でどこかに消えてしまいました。数分後に戻って来ると僧侶の前にひざまずいて顔を下に向けたまま両手でペットボトルの水を差し出しました。水を買いに行っていたのです。仏教の国タイで僧侶は尊敬されていると聞いていましたが、その実例を見た思いでした(後でタイ事務所のタイ人スタッフに尋ねたら、ごく普通の行為だと言っていました)。

私は学生のころからバッハの音楽とキリストをモチーフにしたルオーの絵に惹かれ、キリスト教関係の本を時々読んでいましたが、タイやラオスに行くようになってから仏教関係の本も少し読むようになりました。しかし、仏教の本質をやさしく深く、そして面白く説いた本にはまだ巡り合っていませんでした。それが10年ぐらい前に今枝さんの『ブータン仏教から見た日本仏教』(NHKブックス)を読んで、日本で広く信じられている(?)仏教と本物の仏教の違いを教えられて衝撃を受けました。40年近くフランスで仏教を研究し、その間、ブータンに10年滞在してチベット仏教も体験・研究を積んだ人の議論の深さと明晰さゆえの衝撃でした。

さて、『ブータン仏教から見た日本仏教』が出版されてから10年以上経っても、日本の仏教は今枝さんの望む方向には変わっていないようです。というのも、『ブッタが説いた幸せな生き方』の「はじめに」で、池上彰氏のこんな文章を紹介しているからです(終章でも再度取り上げています)。「日本の仏教は、死者を弔うことだけに特化し過ぎました。(中略)仏教にもともとあった、よりよく生きるための教えという側面が、かすんでしまっているからです」「新興宗教やカルトが力を得るのは、既存の宗教や価値観が人の心を惹きつける力を喪っているからです。(中略)多くの人が伝統仏教の姿に、すでに救いを見出せなくなっているからでしょう」「無宗教になってしまったかのような日本人も、本当は今でもどこかに救いを求めている」。本当の仏教は、日本人の求めに十分応じる内容を持った宗教だ。それをどうしても知ってもらいたい――これが今枝さんの変わらぬ著述活動の動機で、本書を執筆した想いではないでしょうか。

では、ブッダは一体どんな宗教を説いたのか?今枝さんの説明は明晰ですが、それでもやはり理解の難易度は高く、それをここで要約することは至難の業です。それで、本を読む中で「あっ、そうなんだ!」と思った(教えられた)箇所を抜粋することにします(このブログでよくやるパターンです)。ただその前に、ブッダはどんな生涯を生きたのか、それを本書から大雑把に要約してみます――今から約2,500年前、インド北部の小王国の王族に生まれたブッダは16歳で結婚し、その後に息子が生まれると王位継承権を息子に譲り、29歳の時に長年の懸案であった「老・病・死」という人間の苦しみを超越する道を見つけようと出家修行に出ました。あしかけ7年、瞑想と苦行に明け暮れましたが、それでもその道が見つけられませんでしたが、その後、快楽の追求とその対極である死の寸前に至るまでの瞑想・苦行の間に求めるべき道(=中道)があると悟り、目覚めてから(「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味です)約5週間、自分が発見した真理を徹底的に吟味し、考察し抜きました。こうして35歳の時に、人間の存在に内在する普遍的苦しみを乗り越える道を確立しました(ここでの特徴は、他の宗教と違って「ブッダは、神からの啓示ではなく、ものごとを徹底的に観察・分析し、ものごとの本質について自分の力で考え抜いたことである」と著者は指摘しています)。ブッダの生涯はけっして順風満帆であったわけではありません――例えば、ブッダ自身の母国シャーキャ氏族の国はコーサラ国にほぼ全滅させられましたー-、また、インド社会の基盤であるカースト制度による社会階級や身分差別を認めなかったので、当時のインド社会から異端視されました。こうした様々な苦楽を経験して80歳まで生きました。

さて、ブッダのところにたくさんの人がアドバイスを求めに来ましたが、ブッダは一人ひとりが直面する個別具体的な苦しみや悩みに対して解決策を提案しました。その根本にあるブッダの教えとはなんだったのか?上述の通り、本書の中から「あっ、そうなんだ!」と思わず膝を打った箇所を、多少の要約をしつつ抜き出してみます。

あっ、そうなんだ!―1:(ブッダが弟子から、生きる意味やなぜ死ぬのかなどといった形而上学的問題を尋ねられ答えます)「形而上学的問題にかかわらず、人生には病、老、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。私が教えているのは、この生におけるそうした苦しみの消滅である(人生や死の意味や理由ではない)。(中略)私が説明したことは(1)苦しみの本質(2)苦しみの生起(3)苦しみの消滅(4)苦しみの消滅に至る道(の4つ)・・・」。今枝氏によれば、『目覚めた人』ブッダが何に目覚めたのかというと、苦しみの消滅に関する認識とその消滅方法への目覚めでした。確かに上述の(1)~(3)は苦しみとは何かについての認識、(4)はその苦しみから解放される実践方法です。

あっ、そうなんだ!―2:ブッダが弟子に行った「火の説法」に、ブッダの考えの中心となるものが説かれていると著者は言います。ちょっと長くなりますが本書同様、以下、全文を紹介します。

火が燃えている。すべてのものが燃えている。

あの町の火のように、私たちの心の内にある煩悩の火が燃え盛ってやまない。

心のうちに燃える貪欲の火を見よ。

貪欲の火に心を焼かれる人びとは、苦しみの日々を追って休むことがない。

心の内に燃える怒りの火を見よ。

怒りの火に心を焼かれる人々は、心波立ち安らぐことがない。

心のうちに燃える愚痴の火を見よ。

愚痴の火に焼かれる人びとは、不平不満の思いで心静まることがない。

その火を消せ。火を尊んではいけない。

火は心に燃え盛る煩悩であり、目覚めの縁(よすが)ではない。

苦悩の原因は、この燃え盛る煩悩の火にある。

一切の束縛を離れ、理想の境地に達するために、その火を吹き消すのだ。

心に燃え盛る煩悩の火を消すのだ。

その火を吹き消すことで、大いなる安らぎと清浄の境地が得られるだろう。

これからは私に従って、正しい教えに基づいて修行を完成させよ。

あっ、そうなんだ!―3:涅槃(ねはん)は「仏教の究極の目的、最高の境地」を指します。涅槃の境地は苦しみを消滅させる8つの項目(=八正道)を常日頃から根気よく熱心に歩み、自らを修養して初めて現世において自らのうちに体現できるものとされており、その8項目とは以下の通りです。①正見(しょうけん):ものごとのありのままの姿を透視・理解する叡智 ②正思惟(しょうしゆい):正しい思考、善悪の判断 ③正語(しょうご):噓をついたり、粗悪な言葉を用いない ④正業(しょうぎょう):命を傷つけたり、盗みを働いたり、不誠実なことはしない ⑤正命(しょうみょう):他者を害することによって生計を立てない ⑥正精進(しょうしょうじん):邪で不健全な心を持たず、努力する ⑦正念(しょうねん):ことば、心による行いをはっきり意識し注意する ⑧正定(しょうじょう):正しい精神統一、集中力。これら①~⑧の8つの項目を同時に実践することをブッダは説きました。

あっ、そうなんだ!―4:すべての宗教で信仰が大きな役割を果たしますが、仏教では「信仰は明晰な知識に由来する」、すなわち、どうして信じるのかを知らなくてはならず、選ぼうとする道(宗教)が求めるものに実際に対応しているかどうかを確かめる必要があると今枝氏は説きます。「どんな利益があるのかを自問しなさい。その基本的な教えを勉強しなさい。実際に修行してみなければ仏教のすべてを知ることはできませんが、その肝要なところはそれで十分知ることができます」(著者は「ブッダが強調したのは自分自身で理解し実践することであり、信心あるいは信仰ではない」と言います)。

あっ、そうなんだ!―5:仏教は無常、死ということをよく問題にすることから、暗い印象を与えがちです。しかし、それは何も人を意気消沈させるためのものではなく、死とか無常を考えないと人は自分の前にいくらでも時間があるかのように思い、無為に過ごしてしまう傾向があるから、と今枝さんと説きます。仏教が無常を前面に出すのは、人生のはかなさを自覚させることによって、前触れもなく突然訪れる死によっていつ終止符が打たれるともわからない、限りある貴重な人生の一瞬一瞬を活用し、意義あるものにするようにとの注意喚起なのです。

 ・・・やっぱり。小難しい話になってしまいました(実はこの本をブログで紹介しようかどうか迷ったのもこの点なのです)。著者は本書の最後にブッダのメッセージを自らの行動で示したとして、あるフランス人のメッセージを紹介しているので、ここでもそれを引用してこの長~い記事を終わりにします。すでにご存じの方もいるでしょうが、2015年11月にパリで起こったイスラム過激派組織による同時多発テロで妻を失ったアントワーヌ・レリスさんの次のようなメッセージ文です。

「金曜日の夜、君たちはかけがえのない人の命を奪った。その人は僕の愛する妻であり、僕の息子の母親だった。それでも君たちが僕の憎しみを手に入れることはないだろう。君たちが誰なのかぼくは知らないし、知ろうとも思わない。(中略)だから、ぼくは君たちに憎しみを贈ることはしない。君たちはそれが目的なのかもしれないが、憎悪に怒りで応じることは、君たちと同じ無知に陥ることになるから。君たちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見、安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。でも、君たちの負けだ。ぼくたちは今までどおりの暮らしを続ける」

「ぼくは今日、妻に会った。夜も昼も待って、やっと会えた。彼女は金曜日の夜、出かけて行った時と同じに美しく、12年前にぼくが狂おしく恋したときと同じようにきれいだった。もちろん、ぼくは悲しみに打ちひしがれている。このことでは君たちに小さな勝利を譲ろう。でも、それも長くは続かない。ぼくは彼女がいつの日もぼくたちとともにいること、そして自由な魂の天国でまた会えることを知っている。そこに君たちが近づくことはできない」

「息子とぼくは2人きりになった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊より強い。それにもう君たちに関わっている時間がないんだ。昼寝から目覚める息子にところに行かなければならない。メルヴィルはまだやっと17か月。いつもと同じようにおやつを食べ、いつもと同じように遊ぶ。この幼い子供が、幸福に、自由に暮らすことで、君たちは恥じ入るだろう。君たちはあの子の憎しみを手に入れることはできないのだから」

---この後、アントワーヌさんがインタビューに答えた内容も紹介されています。

「私は何も特別な人間ではありません。襲ってきた悲しみ、憎しみに、かろうじて踏みとどまりながら書きました。この先、不審にさいなまれることがあるかもしれません。でも憎しみの感情に襲われそうになったときは、このメッセージに立ち返って、生きる喜びを持ち続けたい」

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